『鎌倉 東慶寺 縁切り寺』





1.山門表紙

2.総門

3.山門

4.山門


5.山門


6.鐘楼

7.鐘楼

8.書院中門

9.本堂中門


10.本堂


11.本堂内部

12.本尊:寄木造玉眼入り釈迦如来座像


13.東慶寺のシンボル 金仏


14.松岡宝蔵


15.松岡宝蔵入口


16.松岡宝蔵内部


17.聖観音像


18.鐘楼天井の龍の絵の下図

19.寒雲亭(茶室)門


20.白蓮舎(茶室)

21.境内(松岡宝蔵側から山門を望む)


22.夏目漱石参禅百年記念碑


23.小説家田村俊子の記念碑


24.東慶寺案内図


『鎌倉 東慶寺 縁切り寺』

東慶寺(とうけいじ)は、JR横須賀線「北鎌倉駅」西口を出て旧鎌倉街道(横浜鎌倉線)を鎌倉に向かって200メートル先、駅から徒歩4分の地にあります。

禅宗、臨済宗円覚寺派に属し、山号は『松岡山』と称し、寺号は『東慶総持禅寺』です。

東慶寺に残る過去帳等によれば、1284年(弘安7年)4月、鎌倉幕府第8代執権北条時宗の臨終の間際、北条時宗と夫人は、無学祖元(むがくそげん)を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、夫人は覚山志道大姉(かくさんしどうたいけい)・覚山尼(かくさんに)と安名(あんみょう)したとあります。

そして翌1285年(弘安8年)に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は建立されたと伝えられています。

※安名:禅宗で新たに得度受戒した者に初めて法諱(ほうい)を付与すること。

※法諱:僧侶が受戒するときに受ける法名。

東慶寺は735年の歴史を持ち、現在は円覚寺末の男僧の寺ですが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺(あまでら)で、室町時代後期には住持(じゅうじ)は『御所様(ごしょさま)』と呼ばれ、江戸時代には寺を『松岡御所』とも称した特殊な格式のある寺で、鎌倉尼五山の第二位に列せられる格式の高い尼寺になりました。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する『縁切り寺』として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていました。

夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば

離縁できる女人救済の寺として、開山以来、600年近く縁切りの寺法を引き継いできました。

※住持:寺の長である僧、住職。


東慶寺の「過去帳」には、四世住『持果庵了道尼』のあと南北朝時代に後醍醐天皇の皇女『用堂尼(ようどうに)』が五世住持となったとあります。「由緒書(ゆいしょがき)」ではこの用堂尼以来『松岡御所』と称され「比丘尼御所(びくにごしょ)同格紫衣寺なり」とされています。用堂尼は兄の護良親王(もりよししんのう)の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされています。

比丘尼御所:皇女、女王などが住持する尼寺。

紫衣寺:「紫衣」とは徳の高い僧に贈る紫色の僧衣で、天皇の勅許が必要だった。


江戸時代には大坂落城の翌年の1616年(元和2年)に豊臣秀頼の娘の天秀尼(てんしゅうに)が千姫の養女として命を助けられ東慶寺に入り、後に20世住持となり、創建以来の栄華を極めました。

なおこの天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府によっています。

東慶寺の寺領は、徳川家康の関東入り後で、二階堂86貫60文、十二所内20貫80文、極楽寺内6貫240文とあり、合計112貫でした。この寺領は、鎌倉の寺院では円覚寺の144貫に次ぎ、鎌倉五山第一位の建長寺96貫よりも多かったのです。他の鎌倉五山は浄智寺6貫140文、 寿福寺5貫200文、浄妙寺4貫300文、と二桁も違っています。この寺領はその後江戸時代にも維持されました。

※寺領:寺の所有する領地


東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に縁切寺(駆込寺)として知られていました。この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる1873年(明治6年)5月の直前、1870年(明治3年)12月まで続きました。

駆け込み件数は495件(文書993点)で、内東慶寺に残るものは約400件(文書690点)であるが、実際の件数はその数倍と思われています。 現在残る記録は断片的な記録が多く、どのような事情でと判るものはごく一部しかありません。 

何処から駆込んだかを見ると、圧倒的に多いのは江戸で140件、江戸以外の武蔵国では多摩郡45件、当時武蔵国で現在神奈川県の橘樹郡27件、久良岐郡21件、現在神奈川県の相模国では鎌倉郡38件、三浦郡45件、高座郡55件、その他現千葉県北半分の下総国14件でした。

明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなりますが、それも大半は横領されました。最後の院代順荘尼を描いた1897年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は、本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に‥‥、総門山門はもとより方丈脇寮諸社など朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち、薪として一片の姻と化し」とあります。

順荘法孝尼は1902年(明治35年)78歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じます。そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られました。なお、明治10年代には庫裡が山内村の小学校になりました。これが現在の小坂小学校の前身のひとつです。

1905年(明治38年)、建長寺・円覚寺両派管長 釈宗演禅師(しゃくそうえんぜんじ)が入寺(にゅうじ)し、荒廃した当寺を復興し、中興開山となりました。師の高徳ゆえ、門下には政財界人、哲学者、文化人が多く、禅を世界に広めた鈴木大拙(すずきだいせつ)もその一人です。大拙はのちに当寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立し、禅文化発展の世界的拠点となりました。


【伽藍】

■山門

江戸時代には街道に面して大門があり、現在の階段を上った先の山門は中門で、男子禁制の結界でした。


■鐘楼

山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼があります。 現在の鐘楼は大正5年のものです。 関東大震災で唯一倒れなかった建物です。現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されています。 


■書院

山門を潜り、鐘楼を通り過ぎた右側に書院の中門があり、その中の大きな建物が書院です。現在の書院は二階堂の山林を売った資金で、以前とほぼ同じ間取りで大正末に再建されたものです。 

広さは60余坪。 玄関を上がった「中門廊」は2つの出入り口を持ち、その先北側 に「公卿の間」がある。 その西側、「広庇」(縁)沿いに「次ぎの間」「上座の間」が繋がります。 

上座の間の天井は今は十六菊花紋の格子天井であり、以前は菊・桐の紋であったといいます。 その「上座の間」に向かって左側にお殿様(徳川忠長)が太刀持ちの小姓を従えて座っていてもおかしくない「上段の間」があります。 「広庇」に相当する南側と西側の廊下は、倒壊前は雨戸だったといいますが、今は僅かに波打つ大正ガラスのガラス戸が入っています。 書院から本堂、更に水月堂へと渡り廊下で繋がっています。 東慶寺では様々な文化的イベントを行っていますが、多くの講演会はこの書院を用いています。


■本堂「泰平殿」

書院の門の先の同じ右側の中門の奥が本堂です。明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていましたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態でした。

 その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されましたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察しました。 

その頃、中門(現在の山門)の石段の右に聖観音菩薩像を安置していた観音堂・泰平殿があり、後にこれを現在の白蓮舎の前、菖蒲畑のあたりに移築して本堂とします。 しかしこれも1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊しました。

 このとき本尊両立の文殊・普賢も消失しています。 現在の本堂はその後、1935年(昭和10年)に建てられたものです。 

本尊は寄木造玉眼入り釈迦如来座像です。 寄木造の玉眼入りで、仏頭内側に墨書修理銘があります。 それによって1515(永正12年)に火災があり、かろうじてこの本尊を取出したもののほとんど焼失したらしいことが判りました。


■水月堂

本堂にほぼ接した左側が水月堂です。 元加賀前田家の持仏堂でしたが、1959年(昭和34年)にこちらに移築し、水月観音菩薩半跏像を安置しました。

 水月堂とはその水月観音菩薩像から名付けられました。 この水月堂が出来るまでは水月観音菩薩像は鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館に寄託されていました。 この持仏堂の仏壇は元々丸窓でしたが、水月観音の大きさにちょうどピッタリでした。 水月堂の前には作家の谷村俊子や湯浅芳子の仲間であった山原鶴(号宗雲)の茶室松寿庵があり、本堂前から扁額が見えます。


■金仏

山門をくぐって庭をまっすぐ進むと正面に、東慶寺のシンボル金仏があります。

金仏を背景にどの季節でも季節の花を撮影できるのが、東慶寺の特徴です。


■松ヶ岡宝蔵

水月堂の更に先の右側にあります。かつてはこの場所に方丈があったといいます。1978年(昭和53年)に鉄筋コンクリートの土蔵様式で新築されました。 木造聖観音立像(重要文化財)は受付の先、階段下のスペースの壁面に安置されています。 その上にはかつて蔭涼軒主徹宗尼が伯母である21世住持永山尼の十三回忌に建立し、聖観音立像を安置した泰平殿の扁額が架かっています。 その対面の壁上部には釈宗演の跡を継いだ佐藤禅忠が、釈宗演の大患全癒紀念にと1916年(大正5年)に書いた鐘楼天井の龍の絵の下図が架かっています。 その脇の階段を上がると正面に天秀尼が父豊臣秀頼の菩提のために作らせた雲版が壁にあり、その右が展示室です。

展示室は東慶寺縁切寺法手続きの解説図、女実親呼出状、出役達書、それを入れた菊桐御紋の御用箱、内済離縁状、寺法離縁状などは常設ですが、 特別展として縁切寺の今昔展、東慶寺二十世天秀尼展、東慶寺仏像展(毎年春)、東慶寺伝来蒔絵展(毎年秋)、木下春展、禅僧の画いた達磨展などがこれまで行われています。


■寒雲亭(茶室)

書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭があります。

 寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされます。 ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖 は持ち出すことができしたが、茶室は隣合わせだった表千家・裏千家共にすべて焼失しています。 

従って現在残るものは1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものです。 東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家)に移築され、その後、鎌倉材木座の堀越家 を経て1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものです。

 千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額があります。 垣根の外から見える外壁に「寒雲」の扁額が見えるがそれとは別のものです。 1994年(平成6年)に改修工事を行いました。 

京都の裏千家今日庵にも寒雲亭が再建されています。

普通にお茶室というと「にじり口」から入る広くて4畳半、狭いと2畳に床の間という「小間」のイメージですが、 こちらは「広間」という八畳の茶室で、 露地に面して貴人口(きにんぐち)があり、 書院造りです。 ただし床の間と付書院を分けて格式を和らげています。 下座床で、 寒い時期に切る炉は向切です。 天井は真行草の三段構えで貴人席の上が竿縁天井、その向いが平天井、縁側の下座が船底天井と3種類に分かれています。 現在では月例の月釜、の他、様々な茶会・茶事や体験茶道・香道などに使われています。


■白蓮舎

白蓮舎は、ハナショウブ畑の奥にある立礼席(りゅうれいせき)の茶室です。

立礼席は、椅子に腰掛けて行う手前で、裏千家十一世玄々斎が創案したものです。


■夏目漱石参禅100年記念碑

記念日は、山門を入ってすぐ右側にあります。1894年(明治27年)、作家夏目漱石は、円覚寺の塔頭(たっちゅう)帰源院に止宿し、釈宗演に参禅しました。そのときのことは小説『門』に描かれています。


「夏目漱石参禅100年記念碑」には、1912年(大正元年)9月11日に漱石が当時東慶寺にいた釈宗演を再訪したときの様子を書いた『初秋の一日』と、宗演の手紙の一部が刻まれています。


■小説家田村俊子の記念碑

山門を入った左手に、小説家田村俊子の記念碑があります。幸田露伴に師事した女流流行作家で、明治末期から大正に掛けて作家活動をしました。1945年中国で客死し東慶寺に墓所があります。

「女作者はいつも、おしろいをつけている。この女の書くものはたいがい、おしろいの中からうまれてくるのであろう」。

友人の高村光太郎の妻智恵子をモデルにして書いた『女作者』の中の文章です。


■東慶寺は花の寺としても知られ、境内には梅や花菖蒲(はなしょうぶ)、紫陽花(あじさい)など様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。



■学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙(すずきだいせつ)、西田幾多郎(にしだきたろう)、岩波茂雄(いわなみしげお)、和辻哲郎(わつじてつろう)、安倍能成、(あべよししげ)高見順(たかみじゅん)、小林秀雄(こばやしひでお)らの墓があります。


↓東慶寺HP

https://tokeiji.com/

住所:鎌倉市山ノ内1367


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