鎌倉彫『博古堂』

O.博古堂外観(表紙)


1.博古堂外観


2.店内作品陳列


3.店内作品陳列


4.店内作品陳列


5.店内作品陳列


6.店内作品陳列


7.作品・菓子器等 錫色

8.作品・泉涌寺 屈輪唐草 手刳小筥 錫色 


9.作品・文箱 唐草 朱色


10.後藤尚子氏作品


11.後藤尚子氏作品


12.後藤尚子氏作品


13.観世音在菩薩


14.2階明治期の作品


15.明治期作品


16.閻魔王坐像


17.上杉重房坐像


18.運久作 図案


19.パリ万博賞状


20.1896年(明治29年)鎌倉全図


21. 1896年(明治29年)仏師鎌倉彫後藤斎宮工房


22.八幡宮隣店舗 太平洋戦争時解体前


『博古堂』

博古堂(はっこうどう)は、鶴岡八幡宮 三の鳥居の東隣りにある鎌倉彫の老舗店です。

起源は、仏師の時代にまでさかのぼると鎌倉時代(1183〜1333)です。

約700年前、鎌倉は中国からもたらされた禅宗の都として栄えました。

禅宗寺院の仏像の制作のために奈良からきた慶派の仏師達、その末裔が現在の博古堂の当主である後藤家です。

鎌倉時代より、鎌倉扇ケ谷の『寿福寺』門前は仏所として十数軒の仏師が造仏を家業としていました。


鎌倉仏師の姓には、高橋、鈴木、小嶋、伊沢など十指以上があげられますが、中心となるのは後藤・三橋の両家で、後藤家には小田原北条氏の文書が伝わり、中世末すでに仏師家系であったことが知られています。


後藤・三橋の両家はともに江戸時代には巨匠『運慶』を師と仰ぎ、鎌倉仏師としての伝統と誇りをもって家業を堅持していました。

しかし、その造仏の仕事も、大政奉還後に成立した新政府による慶応4年(1868年)の「神仏分離令」、明治3年(1870年)の「大教宣布(だいきょうせんぷ)」と、一連の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動により激減するにつれ、ほとんどは廃業、後藤家も岐路に立たされました。


※ 神仏分離令:

神仏習合の慣習を禁止し、神社と寺院をはっきりと区別させる、仏教排斥を意図した。

※ 大教宣布:

天皇に神格化を与え、神道を国教と定めて祭政一致の国家とする国家方針を示した。

※ 廃仏毀釈:

江戸時代、水戸学の影響により神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。明治政府の「神仏分離令」、および「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者たちは、各地で仏教を排撃し、仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行なった。

鎌倉では、『鶴岡八幡宮寺』で、薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、仁王門、仏像、経巻、仏具などが破壊、焼却され、鶴岡八幡宮寺は廃絶し、神社『鶴岡八幡宮』となった。


天保9年(1838年)生まれの『後藤齋宮(いつき)』は寿福寺門前に工房を構え、仏師としての高い技術を活かし、力強さと柔らかさと兼ね備えた彫技でさまざまな器物を製作しました。

斎宮の後を継いだ『後藤運久(うんきゅう)』は、鶴岡八幡宮前に店舗を増設、弟とともに工房を率い、古作に倣いながら平明で均整のとれた作風を展開しました。

運久は、洗練された彫技をうかがわせる彫像を制作する一方、多くの工人を率いて器物を手がけました。

後藤齋宮(1838~1908)と後藤運久(1868~1947)は、その技をいかし、古来鎌倉の地で仏師の手により成され、発展してきた鎌倉彫へと大きく舵を切ったのです。運久はシルクロードを好み、盆や正月など仕事の休みのときには奈良京都へも度々足を運び、常に研究を重ねました。

明治21年(1888年)、仏師の誇りと技をこめた鎌倉彫に一百年間保証券を発行、翌年、パリ万国博覧会に仏像と鎌倉彫を出品、受賞しました。そして23年第3回内国博覧会出品を期に「鎌倉彫 再興広告」を発行し、その確固たる品質を世に問いました。

後藤齋宮52歳、 長男後藤運久22歳、弟の劉慶、久慶、弘慶は、当時のことを「彫って彫って彫りぬいた」と記しています。

明治33年(1900年)、鶴岡八幡宮鳥居脇に店舗を構え、「博古堂」と号します。

使うことを考慮した後藤彫りと彫刻を引き立て堅牢な幹口塗り(ひくちぬり)を考案したのもこの頃です。明治38年セントルイス博覧会にはそれまで最多の仏像6点を含む275点を出品、ほとんど売りつくしたと記されています。

当時、横須賀線の開通により避暑地として賑わった鎌倉は、皇室、政財界人、或いは外国人も多く、そのような顧客に支えられ、鎌倉彫の名は知られるところとなりました。数千枚の下図や木地図面のほか、売上帳、注文帳、買い入れ帳、彫刻部日誌、万博出品目録など和紙に墨書の帳面が十数冊のこされています。

大正12年(1923年)、運久の孫として生まれた『後藤俊太郎』(1923-2006)は家業を継ぐべく祖父の養子となります。

東京美術学校在学中、松江で終戦を迎えますが、その5日前に鶴岡八幡宮前の店舗は強制疎開で壊されました。昭和22年(1947年)に先代運久が他界、店舗を再建後、23年(1948年)株式会社博古堂を立ち上げました。 


創立時の株主は村田良策、川喜多かしこ、田辺至、渋江二郎の各氏、増資に際しては大佛次郎、井上禅定、今日出海、永井龍男、小山富士夫など多くの文化人諸氏の助力を得ています。

俊太郎の椿や柘榴(ざくろ)をモチーフにした力強い彫刻は、多くの方々に愛されてきました。

伝統に根ざしつつも大正から昭和の彫刻・工芸の潮流を意識したモダンな作風を確立するとともに、『鎌倉彫会館』を建設、鎌倉彫業界の発展にも尽力しました。


平成18年(2006年)俊太郎他界後、後藤家初めての女性当主、現29代当主『後藤圭子氏』は、デザインを通して伝え継がれた博古堂のかたちを大切にするとともに、現代のかたちを提案しています。

堅牢で使いやすいこと、美しいこと、使い込むうちに味わいを増し、使い継がれるほどに手に馴染むもの。そして木彫り漆塗りの表現の可能性を限りなく追求した彫刻作品などなど。

平成19年(2007年)耐震をかねて店舗を改築、様々な可能性を提案する場としています。

令和2年(2020年)2月には、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業し、数々の受賞経歴を持つ、鎌倉彫後藤会会長の『後藤尚子氏』が博古堂5代目社長に就任し、確かな伝統に更に新たな風を吹き込んでいます。


(博古堂HP、及び、「観光地鎌倉と鎌倉彫」、後藤尚子社長インタビューより)


↓博古堂HP

http://www.kamakurabori.org/

住所:鎌倉市雪ノ下2-1-28

電話番号:0467-22-2429


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