1. 三門
2. 旧鎌倉街道から総門方向を見る
3. 白鷺池と橋
4. 白鷺池と総門の間の横須賀線踏切
5. 総門前の石段
6. 総門前の石段
7. 総門
8. 総門扁額 「瑞鹿山」
9. 三門
10. 三門の扁額 「円覚興聖禅寺」
11. 三門
12. 仏殿と前庭の柏槇(ビャクシン)の古木
13. 仏殿
14. 仏殿の扁額 「大光明宝殿」
15. 仏殿内部
16. 本尊宝冠釈迦如来像
17. 仏殿天井「白龍図」
18. 洪鐘入口の鳥居
19. 洪鐘
20. 選佛堂
21. 選佛堂本尊 薬師如来
22. 居士林
23. 方丈唐門
24. 唐門の扉
25. 方丈
26. 方丈内部
27. 妙香池
28. 正統院座禅道場
29. 正統院舎利殿
30. 佛日庵(開基廟)
31. 松嶺院
32. 桂昌庵(閻魔堂)
33. 白鹿洞
34. 左奥:円覚寺入口、中央:鎌倉街道と駐車場、右:土塁
35. 手前:鎌倉街道、中央:円覚寺境界の土塁、奥の道:馬道
36. 境内案内図
『円覚寺』
円覚寺(えんがくじ)は、JR横須賀線「北鎌倉駅」東口を出てすぐ東側に総門に通じる入り口があります。入ってすぐの階段を上がると総門です。
禅宗、臨済宗円覚寺派の大本山で、山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、寺号は正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさん えんがくこうしょう ぜんじ)と称します。
円覚寺は臨済宗の寺院格付けである鎌倉五山の第二位です。
第一位:建長寺、第三位:寿福寺、第四位:浄智寺、第五位:浄妙寺です。
五山は、京都と鎌倉にそれぞれ五山があり、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれました。
鎌倉五台山第一位の建長寺創建の29年後、鎌倉時代1282年(弘安5年)の創建で、738年の歴史をほこります。本尊は宝冠釈迦如来。開基(創立者)は鎌倉幕府第8代執権・北条時宗(ほうじょうときむね)、開山(初代住職)は北条時宗が中国から招いた禅僧・無学祖元(むがくそげん)です。
北条時宗は、国家鎮護のためと文永の役の戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願(ほつがん)しました。
寺は1281年(弘安4年)から建立が始められ、翌1282年(弘安5年)に無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われました。
時宗は当時鎌倉にいた中国出身の建長寺初代住職、高僧蘭渓道隆を師として禅の修行に励んでいましたが、その蘭渓が1278年(弘安元年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣しました。
これに応じて1279年(弘安2年)に来日したのが無学祖元です。鎌倉にはすでに時宗の父北条時頼(ほうじょうときより)が創建した禅寺の建長寺が存在していましたが、幕府が護持する性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私的な寺でした。
また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われます。
円覚寺では、元寇(げんこう)で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されています。
山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞(はくろくどう)」があります。
寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘ったところ、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるといいます。
円覚寺は、北条得宗(ほうじょうとくそう)の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。
境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日座禅会が実施されています。かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られています。
塔頭(たっちゅう)の仏日庵(ぶつにちあん)には、北条時宗の墓があります。
※ 塔頭:大寺院の境内周辺に建てられた小寺院を指します。
円覚寺の伽藍(がらん)
伽藍は、創建当時は建長寺同様、総門・三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様伽藍配置でしたが、1563年(永禄6年)の大火で古い建物は失われました。舎利殿は他所からの移築で法堂は再建されていません。
総門
白鷺池(びゃくろち)の橋を渡り石段を登りきった所にあり、瑞鹿山の額が掲げられています。
三門(山門)
総門の先の石段を登るとあり、1785年(天明5年)、大用国師誠拙周樗(だいようこくしせいせつしゅうちょ)が再建したものと言われています。「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の勅筆とされます。楼上には十一面観音、十六羅漢像などが安置されています。
洪鐘(おおがね)(梵鐘)
三門手前を右に進み、脇に洪鐘の石碑が立つ鳥居をくぐり、長い石段を登りきった先に位置します。洪鐘の脇に江ノ島弁天と関係が深い弁天堂があります。
仏殿
関東大震災で倒壊し、1964年(昭和39年)再建。鉄筋コンクリート造ですが、1573年(元亀4年)元亀4年の仏殿指図(さしず、設計図)に基づいて建てられています。
堂内には本尊の宝冠釈迦如来像や梵天・帝釈天像などが安置されています。
天井画の「白龍図」は前田青邨(まえだせいそん)の監修で日本画家守谷多々志(もりやただし)作です。
選仏場(せんぶつじょう)
仏殿の通路をはさんですぐ北隣にあり1699年(元禄12年)建立の茅葺き屋根の建物。坐禅道場です。内部には薬師如来立像(南北朝時代)が安置されています。仏殿が再建されるまで、この堂が仏殿を兼ねていました。
方丈(ほうじょう)
方丈は元来は寺の住持(住職)の住む建物を指しますが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっています。前庭のビャクシン(柏槇、和名イブキ)の古木は無学祖元手植えと伝えられています。
妙香池(みょうこうち)
方丈の通路をはさんで北側にある池と庭園で、禅僧・作庭家・漢詩人で歌人の夢想疎石(むそうそせき)作と伝える庭園の遺構です。
国宝舎利殿(しゃりでん)
『神奈川県唯一の国宝建造物』で、境内の奥に位置する塔頭(たっちゅう)正続院の中にあり、仏舎利(ぶっしゃり)釈尊の遺骨が安置されています。
「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持(住職)の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る重要な塔頭です。
堂内中央には源実朝が南宗から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右に地蔵菩薩像と観音菩薩像が立っています。
この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、典型的な禅宗様の特徴を持っています。
かつては鎌倉時代の建築と考えられてきたが、規模・形式が近似する正福寺地蔵堂が室町時代の1407年(応永14年)応永14年の建立とされたことから、同じ頃(15世紀前半)の建築と考えられています。また、鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものと推定されています。
鎌倉時代建立の善福院釈迦堂(国宝、和歌山県海南市)や功山寺仏殿(国宝、山口県下関市)とともに、禅宗様建築を代表するものと評価されています。通常は非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開されます。
なお神奈川県立博物館に内部の当寸復元模型があり、上記の建築意匠を間近に確認することができます。
塔頭(たっちゅう)
大寺院の境内周辺に建てられた小寺院を指します。円覚寺には最盛期には42か院の塔頭がありましたが、現在は19か院が残っています。塔頭のうち常時公開されているのは仏日庵(ぶつにちあん)、黄梅院、桂昌庵(閻魔堂)のみです。松嶺院(しょうれいいん)は春秋などに時期を限って公開しています。他の塔頭は原則非公開です。
正続院(しょうぞくいん)
妙香池の北側にあり、開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)墓所。本尊は文殊菩薩。鎌倉地蔵巡礼第13番札所(手引地蔵)。
正続院はもともと、三代将軍源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めるために、九代執権北条貞時が1285年(弘安8年)に創建した祥勝院(舎利殿)があった場所です。
院内にある国宝舎利殿(しゃりでん)には仏舎利(ぶっしゃり)釈尊の遺骨が安置されています。
舎利殿横には、坐禅の専門道場である僧堂(正法眼堂(しょうぼうげんどう))が開かれ、雲水の修行の場となっています。
舎利殿背後の開山堂には、開山無学祖元像「木造仏光国師坐像」(国重文)が祀られ、開山堂裏山には無学祖元の墓所があります。
仏日庵(ぶつにちあん)
正続院の南側にあり、8代執権北条時宗の廟所(開基塔)で、9代執権貞時、14代執権高時も合葬されています。本尊は地蔵菩薩。北条氏滅亡後は衰退しましたが、室町時代に鶴隠周音(かくいんしゅういん)が再興して塔頭としました。
居士林(こじりん)(済蔭庵 さいいんあん)
仏殿のすぐ北側にあり、第58世曇
芳周応(どんぽうしゅうおう)の塔所です。本尊は不動明王。現在は居士林、すなわち在家信者のための坐禅道場となっています。建物は牛込(東京都新宿区)にあった柳生流の剣道場を、1928年(昭和3年)柳生徹心居士より寄進され移築したものです。
松嶺院(しょうれいいん)
三門のすぐ北側にあり、第150世淑悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所です。本尊は釈迦如来。もとの不閑軒。観光的には牡丹の名所として知られ、開高健(作家)、田中絹代(女優)、佐田啓二(俳優)、坂本堤(弁護士)など著名人の墓があることでも知られています。有島武郎はこの寺にしばしば逗留し、『或る女』などを書きました。
寺内は通常は非公開ですが例年春と秋に期日を限って公開されています。
桂昌庵(けいしょうあん)閻魔堂
松嶺院の西隣にあり、閻魔十王像を祀ることから、閻魔堂または十王堂とも呼ばれています。第49世承先道欽の塔所。本尊は地蔵菩薩(矢柄地蔵)。1566年(永禄9年)、大道寺資親の寄進により創建されました。庵内には弓道場もあり、弓道を練習する人をみることができることもあります。
円覚寺の本来の境内は、旧鎌倉街道(県道横浜鎌倉線)街道沿いの現駐車場西側に残されている石垣(土塁)から東側で旧鎌倉街道も含まれていました。旧鎌倉街道に面してあった門は、関東大震災で倒壊した後再建されず、近年まで門柱の一部のみ残存していましたが、撤去されました。
石垣の西側には境内を通らない迂回路として馬道(めどう、うまみち)が造られ今も残っています。北鎌倉駅前山ノ内交番付近で旧鎌倉街道に並行している小道です。
明治時代、軍港横須賀に通じる鉄道(現・JR横須賀線)の建設にあたって、無理やり円覚寺境内に線路を通過させたため、このような位置関係になっています。
旧鎌倉街道とJR横須賀線線路の間には白鷺池(びゃくろち)という池があります。
「白鷺池」の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮寺の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因むといいます。
住所:鎌倉市山ノ内409
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