『浄智寺』

1.鐘楼門



 
2.総門



                                   3.総門脇の甘露の井戸



            4.総門、『寶所在近(ほうしょざいきん)』の扁額



                                         5.鐘楼門



6.鐘楼門


                                    7.鐘楼門、「山居幽勝」の扁額



                                      8.鐘楼門の側面



                                    9.本堂、曇華殿(どんげでん)



                                     10.本堂内、木像三世仏坐像



                                   11.書院入口の門



                                    12. 書院.



                                           13. 寺の裏手洞窟の布袋尊像



                                          14. 寺の裏手洞穴の観音像



                                    15. 天柱峰(てんちゅうほう)に続く坂道



                                   16. 天柱峰に続く坂道



                                     17. 天柱峰に続く坂道、道標



                                       18. 天柱峰手前の急坂



                                    19.天柱峰(てんちゅうほう)



                                      20. 天柱峰碑


『浄智寺』


浄智寺(じょうちじ)は、JR横須賀線「北鎌倉駅」西口を出て旧鎌倉街道(横浜鎌倉線)を鎌倉に向かって500メートル先、「明月院」バス停を南側に入ったところ、駅から徒歩8分の地にあります。東慶寺の東、建長寺の西南の谷戸に位置しています。

禅宗、臨済宗円覚寺派に属し、山号は金宝山(きんぽうざん)と称します。

浄智寺は臨済宗の寺院格付けである鎌倉五山の第四位です。
第一位:建長寺、第二位:円覚寺、第三位:寿福寺、第五位:浄妙寺です。
五山は、京都と鎌倉にそれぞれ五山あり、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれました。

鎌倉五台山第一位の建長寺創建の28年後、鎌倉時代1281年(弘安4年)の創建で、737年の歴史をほこります。本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の三世仏で、それぞれ、過去、現在、未来を象徴しています。三世仏は神奈川県の重要文化財に指定されています。
三世仏は、それぞれ過去・現世・未来の三世に渡って人々の願いを聞き入れてくださるというありがたい仏様です。本堂の「曇華殿(どんげでん)」の名は、三千年に一度だけ咲く伝説の優曇華(うどんげ)の花に由来します。

阿弥陀様の手は定印(じょういん)(悟りを開いた時の心の安定を表わす)を結んでいて、よく見ると釈迦如来は右手が下、弥勒如来は左手が下と、少しずつ違います。一度火災で焼失し、今の像は南北朝時代に作られた木造です。如来の両脇に垂れた長い衣や、床の黒い敷瓦などは中国から伝わった「宋風(そうふう)」の特徴です。

また「木造地蔵坐像」(国指定重要文化財)や「木造韋駄天立像」(市指定重要文化財)は鎌倉国宝館におさめられています。

浄智寺は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼の三男である北条宗政(ほうじょうむねまさ)が亡くなった折、その菩提を弔うために創建されました。
開基(創立者)は北条宗政の子・北条師時(ほうじょうもろとき)としましたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗(ほうじょうときむね)による創建です。

開山は日本人僧の南州宏海(なんしゅうこうかい)が招かれますが、宏海は尊敬する中国宋出身の高僧で建長寺二世の兀庵普寧(ごったんふねい)と導師の中国南宋出身の大休正念(だいきゅうしょうねん)を開山にして自身は準開山になります。

その後、高峰顕日(こうほうけんにち)や夢想疎石(むそうそせき)らの名僧が住持し、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭(たっちゅう)も11寺院に達しました。1323年(元亨3年)の北条貞時13年忌には浄智寺からの参加僧衆は224人に達したと記録にあり、当時浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人ほどに及んだとみられます。当時は中国(宋)からの渡来僧も多く居たと伝えられています。

※ 塔頭:大寺院の境内周辺に建てられた小寺院を指します。

兀庵普寧(ごったんふねい)は、建長寺の本尊の地蔵尊を、自分より地位が低いからと拝まなかったり、しばしば物議を醸し、もめごとが多かったようで、「ごったん」の名から「ゴタゴタする」という言葉の語源となったと伝えられています。

発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われます。 
鎌倉幕府滅亡後も寺勢は衰えず、1356年(延文元年)には火災で創建時の伽藍を失いますが、室町時代にもまだかなり大きな寺で、上杉禅秀の乱のあとの1417年(応永24年)に足利持氏が鎌倉に戻ったとき、まず浄智寺に入り2か月以上滞在しました。

また持氏の子・永寿王(後の足利成氏)が1449年(宝徳元年)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなども寺の規模の大きさを示しています。 
しかし、15世紀半ばころから都市鎌倉そのものの衰亡と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお江戸時代末まで塔頭8院を維持しましたが、1923年(大正12年)の関東大震災でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね昭和になってから復興されたものです。
 

境内

境内は国の史跡に指定され、寺域は源氏山ハイキングコースにある天柱峰まで広がっています。その境地は昭和の初めから文化人に好まれ、映画監督小津安二郎、日本画家小倉遊亀などが暮らしていました。境内の本堂裏の墓所には作家澁澤龍彦など、文人たちが眠っています。澁澤龍彦の本名は龍雄ですが、墓には龍彦と刻まれています。 

境内は樹木が豊かで起伏に富み、境内奥の洞窟には彌勒菩薩の化身と言われている、鎌倉江ノ島七福神のひとつである布袋尊の石像がまつられています。
布袋尊は、福徳円満のご利益があると言われます。にこやかなその姿は誰もに愛され、お腹を撫でると元気がもらえると言われています。多くの方に撫でられたお腹はとてもツルツルとしています。
道は砂岩の一種である鎌倉石で舗装されています。重層一間一戸の三門は、上層が鐘楼を兼ねている珍しい形式のもので、花頭窓をあしらった中国風の意匠が特徴です。近年、この門は全面的に改築されてまったく新しくなりました。この門をくぐったところに、本尊の三世仏を安置する仏殿「曇華殿(どんげでん)」があります。

境内入り口にある湧き水は鎌倉十井のひとつ「甘露の井」です。また、寺の裏山からは源氏山に抜けられます。蜜のように甘く、仏徳で授かる霊水で不老不死の功徳があると言われます。

浄智寺境内横の道(葛原岡・大仏ハイキングコース)を約10分ほど登ると、天柱峰(てんちゅうほう)に着きます。
中国元から来日した臨済宗の高僧 竺仙梵僊(じくせん ぼんせん)が名付けた丘で、「天柱」とは「世を支える道義」という意味です。竺仙梵僊は、ここからの景色を愛し、麓を終焉の地と定めて塔所「楞伽院」(りょうがいん)を構えて、詩文集「天柱集」を著しました。山頂には昭和16年に建立された「天柱峰碑(てんちゅうほうひ)」があります。


伽藍

伽藍は、現存する鐘楼門(しょうろうもん)や本堂の様子などより、「宋風」という当時の
国の様式をうかがうことが出来ます。


山門
円覚寺開山の無学祖元の筆とされる『寶所在近(ほうしょざいきん)』の文字が掲げられた総門は、深い木々に囲まれ、浄智寺を象徴する石段が伸びています。
寶所在近とは「仏を信じ、修行を積めば心の平穏が得られる」という仏の教えを意味しています。また、門の手前には鎌倉十井の一つ「甘露の井」があります。

鐘楼門(しょうろうもん)
鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門です。
鐘楼門は鐘つき堂を兼ねた山門で、1階には山門があり、2階には花頭窓という花形の印象的な窓と梵鐘が下げられています。
2007年に再建された鐘楼門は「山居幽勝」の額が掲げられ、花頭窓のある上層には1649年(慶安2年)の梵鐘が吊るされています。

本堂 曇華殿(どんげでん)
曇華殿と呼ばれる仏殿です。
御本尊は室町期作の木像三世仏坐像で県指定の重要文化財です。
左から『阿弥陀・釈迦・弥勒』の各如来で、『過去・現在・ 未来』の時を象徴しています。各如来は衣の裾を台座に長くたらした様式で、鎌倉仏の特徴をよく表したお姿をしています。また、曇華殿後ろ側には鎌倉三十三観音霊の一つ観音菩薩像も祀られています。


書院
大正13年に建てられた茅葺の建物です。
茅葺き屋根の素朴な外観の書院は庭園側から見ても、正面から見ても実に美しい佇まいです。四季を通してその移ろいを楽しめます。


↓浄智寺HP
https://jochiji.com/

住所:鎌倉市山ノ内1402


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