『建長寺』
1.三門:天下門、総門の先にある門。
『建長寺』
建長寺(けんちょうじ)は、JR横須賀線「北鎌倉駅」から旧鎌倉街道を南東方向に1.2Km、歩いて約15分の地にあります。
禅宗、臨済宗建長寺派の大本山で、山号を巨福山(こふくさん)と称し、寺号は正式には建長興国禅寺(けんちょう こうこく ぜんじ)と称します。
建長寺は臨済宗の寺院格付けである鎌倉五山の第一位です。
第二位:円覚寺、第三位:寿福寺、第四位:浄智寺、第五位:浄妙寺です。
五山は、京都と鎌倉にそれぞれ五山あり、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれました。
鎌倉時代の1253年(建長5年)の創建で、767年の歴史を誇ります。本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)、開山(初代住職)は中国の南宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)で、第二世は同じく南宋からの渡来僧、兀庵普寧(ごったんふねい)です。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されています。
当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していました。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代でした。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していました。
時頼は最初、曹洞宗の開祖「道元」を開山に招請しましたが道元は「越州(福井)に小院(永平寺)の檀那(信者)ありと」として辞退し、代わりに蘭渓道隆を推挙したとの説(道元の伝記『建撕記(けんぜいき)』)もあります。道元は蘭渓道隆と書簡の交換を行ったとも言われています。
当時、外国渡来の最新文化であった「禅」の寺を建てることによって、京都の公家(くげ)文化に対抗しようという意識があったとも言われています。日本で初めての純粋禅道場が開かれ、多いときには1,000人を超す僧侶が修行に訪れていたと言います。
開山の蘭渓道隆は中国・宋末の禅僧で、1246年(寛元4年)、33歳で来日。はじめ筑前国博多に着き、京都に一時住んだ後、1248年(宝治2年)に鎌倉入りしました。
建長寺が創建されるまでは常楽寺(鎌倉市大船に現存)に住んでいました。当時の日本には、すでに半世紀以上前に建立された建仁寺(京都)や寿福寺(鎌倉)などの禅宗系寺院がありましたが、当時これらの寺院は禅宗と他宗との兼学であり、純粋禅の道場としては、建長寺は聖福寺(北九州)などに次ぐ古さを誇るとされています。
伽藍配置は中国式で、寺内では日常的に中国語が使われていたといいます。蘭渓道隆の禅風は中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものでした。道隆は1262年(弘長2年)京都の建仁寺に移りましたが2年後に鎌倉に戻って建長寺住持に復帰します。
その後、文永の役の際には中国側のスパイと疑われたためか、甲斐国(山梨県)に流されたこともありましたが、のちに許されて鎌倉に戻り、1278年(弘安元年)4月、建長寺住持に再度復帰。同じ年の7月、異国日本で生涯を閉じました。66歳でした。
その後の建長寺は1293年(正応6年)4月12日に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊、炎上。元から来日した禅僧、一山一寧(いっさんいちねい)を第十世に任じて再建にあたらせました。
しかし、続いて1315年(正和4年)、1416年(応永23年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失いました。
鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれました。江戸時代には徳川家の援助で主要な建物が新築または他所から移築されましたが、1923年の関東大震災でも大きな被害を受けています。
創建当時の建物は失われたとはいえ、総門・山門・仏殿・法堂(はっとう)・大庫裏・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は、創建当時の面影を残すものとされます。なお、地形の関係で総門 〜山門間の参道は斜めになっています。
法堂(はっとう)は、鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に指定されました。
他に竜王殿とも称する方丈の入り口の門「唐門」や「山門」、「仏殿」も重要文化財です。
総門から山門へ至る参道の桜は鎌倉でも有数の桜の名所です。満開時の桜のアーチは見事で鎌倉を代表する桜の絶景です。尚、建長寺では山門を三門と称しています。
三門右手の鐘楼に架かる梵鐘は国宝です。高さ約2.1メートル。建長寺創建当時の数少ない遺品の1つとして貴重です。銘は蘭渓道隆が撰(作文)し、筆を執ったもので、銘文中の「建長禅寺」は、日本における「禅寺」の語の初見とされています。
建長寺の梵鐘は、関東一美しい鐘と言われています。
円覚寺、大船の常楽寺の鐘とともに「鎌倉三名鐘」と称されています。
三門から先の仏殿の前庭は前栽列樹とよばれる宋の禅寺庭園様式で、柏槇(びゃくしん)の古木7本と若木1本が植えられています。柏槇の巨木は、樹齢約750年で神奈川県名木百選に選ばれています。
一部は開山の蘭渓道隆が宋から持参して植えたと伝えられています。
建長寺の伽藍(がらん)・建物
総門:
1783年(天明3年)の建立。1940年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものです。掲げられた「巨福山」の額の「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされています。一点加わったことで百貫の重みが増したということで「百貫点」と呼ばれています。
山門:
建長寺では三門と言われています。三門とは「三解脱門」の略で、門の下を通ると心が清浄になると言われています。上層内部に、宝冠釈迦如来像、十六羅漢像、五百羅漢などが安置されています。
上層の正面中央に「建長興国禅寺」の扁額が掛かっています。
仏殿:
本尊である坐高約2.4メートルの巨大な地蔵菩薩の他、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、像伽藍神像が安置されています。仏殿は、1647年に東京 芝にある増上寺より移築されました。仏殿は法要を行う場所で、法要は、毎月1日、15日、23日、24日に行われます。
建長寺はかつて地獄谷と呼ばれた土地の地蔵堂を中心に建立されました。その為、禅寺ですが本尊は釈迦如来ではなく地蔵菩薩です。
法堂:
住持が仏に代わって須弥壇上で説法するためのお堂。鎌倉最大級の木造建築です。本尊千手観音菩薩と釈迦苦行像が祀られています。
釈迦苦行像はパキスタンのラホール中央博物館所蔵の釈迦苦行像のレプリカが愛知万博に展示された後、万博終了後にパキスタンより寄贈され、安置されました。
天井に描かれている日本画家「小泉淳作」の雲龍図は、建長寺創建750年を記念し奉納されました。法堂の畳約80畳分もある巨大なものです。
方丈:
「竜王殿」とも称します。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したものです。
法要、座禅、研修の場として使われています。
方丈北側には、日本最古の禅庭園「池泉庭園」があり、方丈の縁側から眺めることができます。
唐門:方丈の正門。1628年(寛永5年)江戸・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方・家光の母)の霊屋の門として建立。その後1647(正保4年)仏殿・西来門と共に建長寺に寄付・移築されました。
塔頭(たっちゅう):
境内周辺に建てられた小寺院のこと。建長寺には最盛期には49か院の塔頭がありました。現在でも境外塔頭を含め12か院があります。
半蔵坊(はんぞうぼう):
境内のもっとも奥、山の中腹にある、建長寺の鎮守です。
ここに祀られる半僧坊権現は1890年に当時の住持であった霄(おおぞら)貫道禅師が静岡県引佐
郡奥山(現・浜松市北区)の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益があるといいます。半僧坊へ上る石段の途中には多くの天狗像があります。
山の中腹で眺望が良く、参道はそのまま勝上嶽(しょうじょうけん)展望台、鎌倉アルプス、天園ハイキングコースへと続いています。
勝上嶽(しょうじょうけん)展望台:
半蔵坊から更に150段の階段を登った先にある展望台で、相模湾、江ノ島、茅ヶ崎方面の海岸、富士山が良く見えます。建長寺の伽藍の屋根も眼下に眺めることができます。
けんちん汁
建長寺は、けんちん汁発祥の地でもあります。建長寺で精進料理を振る舞っていた際、あまりの来客に食材が不足し、苦肉の策としてつぶした豆腐を野菜と一緒に煮込んで汁物として出したのが始まりです。これが建長汁として評判となり、なまってけんちん汁と呼ばれるようになります。もともと精進料理であったため、肉や魚を使わず、出汁にも昆布や椎茸などが用いられていました。
鎌倉学園
総門の北側に鎌倉学園中学校・高等学校があります。1886年(明治19年)、建長寺は、修行僧学校・宗学林を設立しました。現在の鎌倉学園の前身です。現在も同校の経営には関与していますが、明確な形での宗教教育は行っておらず、男子中高一貫教育を行う進学校として運営されています。サザンオールスターズの桑田佳祐は、同校の出身者です。
住所:鎌倉市山ノ内8
コメント
コメントを投稿