『本覚寺』「鎌倉七福神」えびす様















『本覚寺』

本覚寺は、JR鎌倉駅から東南に約300m、徒歩5分の地にあります。
山門は、小町大路(こまちおおじ)と滑川(なめりがわ)にかかる鎌倉十橋のひとつ「夷堂橋(えびすどうばし)」に面しています。夷堂橋を渡ると「妙本寺」参道入り口です。

本覚寺は、日蓮宗の本山(由緒寺院)山号は妙厳山本尊は釈迦三尊像 身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため東身延(ひがしみのぶ)とも呼ばれています。

現在の山門がある場所の前には夷堂(えびすどう)と呼ばれる堂がありました。
この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものでした
1274年(文永11に佐渡配流から帰った日蓮が一時この夷堂に滞在し辻説法などの拠点としていました
その後、1436年(永享8年)鎌倉公方足利持氏が一乗院日出(いちじょういんにっしゅつ)に寄進した寺院で、日出日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したといいます。

一乗院日出は学者で後に日蓮宗の僧侶になりました初め生地の静岡県三島で自分がいろいろな迫害や苦労に耐えられような心身になる為に三週間も水を浴びて修行しました三週間たった満願の日龍が天にのぼるのをみて大変喜んだといわれています

その後鎌倉に来た日出上人は夷堂に住んで教えを広めましたが他の宗派の人の反対にあいましたその後鎌倉公方「足利持氏」に捕らえられ六地蔵にあった刑場で殺されそになりましたが夷神のお告げで許されましたそのことがあり持氏は上人の人柄にも感心し夷堂のあった所に寺を建て境内約200メートル四方の土地と十二貫二百文(一貫はだいたい米一石=180リットルと換えられた)のお金を寄付しました

後に身延山を再興した第2世の行学院日朝身延山への参詣が困難な老人や女性のために身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めました。本覚寺が東身延と呼ばれる理由です。

前身となった天台宗の夷堂は本覚寺の創建時に境内に移されましたが明治政府の神仏分離令によって寺とは分離され地区の七面大明神山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ、蛭子えびすとも読む)となりました夷堂は、1981年(昭和56年に本覚寺境内に再び再建されましたなお蛭子神社は若宮大路のニの鳥居から東に入った突き当たりにあります。

境内の主な伽藍は、だいたいが近代になってからの創建で、現存する建物の中でもっとも古いのは山門(仁王門)で江戸時代の創建、本堂は大正時代の創建です。
創建時、若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため本覚寺は小町大路(辻説法通り)に入り口を向けています。

本覚寺のえびす様は、「鎌倉七福神」のひとつで、商売繁盛、五穀豊穣の神様のえびす様として知られています。夷堂には、黒夷像が安置されています。
正月は「初えびす」で、110日には十日夷で賑わいます。「福娘がお神酒を振舞います。9月には樹齢100年以上のサルスベリが咲きます。

本堂右側にある分骨堂には、日蓮上人の墓がある身延山から分骨された遺骨が安置されています。
本覚寺は地元では日朝さまとも呼ばれています。第2世の日朝が、眼病の治癒で非常に信仰を集めたのでそう呼ばれています。

境内には、刀工「政宗」の墓があります。正宗は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に鎌倉で活動した刀工で日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人です。
多くの弟子を育成し、正宗の人物およびその作った刀についてはさまざまな逸話や伝説が残され、講談などでも取り上げられています。「正宗」の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えました。

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