『鶴岡八幡宮』と『鶴岡八幡宮寺』廃仏毀釈





































『鶴岡八幡宮』と『鶴岡八幡宮寺』廃仏毀釈

鶴岡八幡宮の現在
鎌倉駅から若宮大路に出て、「ニの鳥居」をくぐり、「段葛」を歩いて約10分、雪ノ下の地にあります。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社です
別称として「鎌倉八幡宮」とも呼ばれます。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東方面で知名度が高く、近年では三代八幡宮の一社に入ることがあります。境内は国の史跡に指定されています。

鶴岡八幡宮の沿革

京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)をあつく信仰していた源頼朝(みなもとのよりとも)の祖父源頼義(みなもとのよりよし)は、『前九年の役』の戦(いくさ)に赴くに際し、祈願をこめたが、平定した後、1081年(康平6年)秋、ひそかに石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請(かんじょう)した。
これが鶴岡八幡宮の起源で、その場所は現在の材木座1丁目7-1にある元八幡宮のところと言われている。

※勧請:神仏の分霊を請(しょ)じ迎えること

源頼義が鎌倉に八幡宮を勧請したのは、騎射の術に優れ長者の風格があった源頼義をみこんで娘の夫にむかえた鎌倉の豪族、「平直方」との関係が要因であった。

源頼朝は、1180年(治承4年)107日、由比(現在の材木座)の鶴岡八幡宮を遙拝(ようはい)した後、住居の建設を手配する一方、新しく鶴岡八幡宮を修造する準備を始めた。
源頼朝は祖宗を崇(あが)めるために、小林郷の北の山、今の八幡宮若宮の辺に宮殿を建て、鶴岡宮をここに遷した。

源頼朝は、1180年(治承4年)1015日、遷宮の後三日後に鎌倉の御亭に初めて入った。そして翌日16日、頼朝の発願として、鶴岡若宮において、『長日の勧行』を始めた。
供僧(ぐそう)が法華経、仁王経、最勝王等鎮護国家三部妙典、その他、大般若経、観世音経、薬師経、寿命経等を奉仕した。

  長日の勧行:継続して長い日数読経すること

鶴岡初代別当は三井寺(みいでら)の円暁(えんぎょう)であった。

  別当:東大寺、興福寺などの諸大寺で、寺務を統括する長官に相する僧職。

  三井寺:弘文1年(672年)建立された天台寺門宗の総本山。
六代目の定豪からは東寺系の別当も就任するようなり、十九代頼仲以降は東寺系でしめられるようになった。

源頼朝は、立派な僧を集めようとしていた。住職たる供僧(ぐそう)として明らかになっているのは阿闍梨定兼(あじゃりさだかね)である。

※供僧:供僧(ぐそう):神宮寺に住し事を修する僧侶。奈良朝ころより神習合思想によって宮神社に寺を建て,これに別校(けんぎよう),勾(こうとう),,執行など多の職階から成る僧侶を住せしめ,神官は別を長とする僧侶の支下にあった。

八幡宮寺には二十五菩薩にちなんだ二十五坊と別当坊(長官の宿舎)があった。
二十五坊とは鶴岡八幡宮寺供僧の住坊のこと。二十五坊の僧は、神主よりも上の地位にあり、その長は鶴岡八幡宮寺の別当(長官)となっていた。

鶴岡八幡宮のもとは現大分県の「宇佐八幡宮」であり、京都の「石清水八幡宮」を経て源義家によって鎌倉由比郷(現在の材木座1-7)に鶴岡(八幡宮)が勧請された。

石清水八幡宮は、元は寺だった
豊前国(大分)の三神社を表す三座のうちに「八幡大菩薩宇佐宮」とあるが、山城国(京都)の石清水は、京都の十四神社である十四座に石清水がなかったことから、石清水は「石清水八幡宮寺」という寺であった事は間違いない。

八幡神(やはたのかみ・はちまんしん)の起源は北九州にあり、八幡神は北九州という土地柄、渡来人の影響を強く受けていた。

八幡神:武家守護神とされた。神天皇の神とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には日本国の帝位は伊勢天照太神八幡大菩薩の御計ひと記されており、天照大神に次ぐ皇室の守護神ともされていた。

八幡宮が『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)』の称号をもつに至ったのは平安初期に初めてみるとされている。

宇佐八幡神は、自ら託宣を下して、『大自王菩薩(だいじおうぼさつ)と名のった。その後『本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)』に圧倒されて八幡神の本地(ほんじ)は『阿弥陀如来』とされた。

  菩薩(ぼさつ):仏陀の前生の姿、陀の手足となって活動する者
(観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩など、鶴岡八幡宮寺では八幡大菩薩とした)

  本地:神道の神々の根本真実身のこと。それぞれの神の本地は,いずれかのまたは菩薩と考えられた。
  本地垂迹説:本地である仏菩薩が救済する衆生(しゆじよ)の能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるとい 日本では神道の諸神を垂迹と考える神仏習合思想が鎌倉時代に整備された。

※垂迹:菩薩(ぼさつ)が民衆を救ため仮の姿をとって現れること

  如来:真理を悟った者(仏)を指し、仏教が興った当初、真理を悟った者は釈迦牟尼だけだった。そのため釈迦如来だけが如来だった。しかし、多くの仏を認める大乗仏教が成立すると、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来など、如来の数は増えていった。

  阿弥陀如来:西方にある極楽浄土を治めている仏。衆生を救うために四十八の請願を立て、修行を重ねて如来になった。その名を唱えれば、死後は極楽浄土に生まれ変わることができるという信仰が中世の頃に盛んになった。


八幡宮は仏教化されたが、完全に仏教化されたのでないことは、「八幡大菩薩宮」の宮の字からも容易に理解できる。

源頼義が石清水八幡宮に参籠したとき、社殿で三寸の霊剣を賜った夢を見た後、覚めてみると、枕元に小剣があったので感涙を拭い、持ち帰って家宝としたが、この霊夢を見た月に妻が懐妊し、月満ちて生まれたのが源義家であった。そこで義家七歳の春、石清水の神前で元服させ、『八幡太郎』と号したという。

※源頼義:源頼朝の祖父、源義家は源頼朝の父


文治2年(1186年)815日、西行が参拝した。西行は重源上人に頼まれ、東大寺再建の砂金を勧進するため、奥州秀衡のもとに行く途中、鶴岡に参拝したという。鶴岡がすでに名刹になっていた。

  西行:平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人で、後世に与えた影響はきわめて大きい。

天正18年(1590年)7月中旬、豊臣秀吉は奥州へ向かったが、途中鎌倉に寄って、鶴岡八幡宮寺に参詣した。
秀吉はその後、徳川家康に鶴岡の造営を担当するように命じた。
家康は、残っていた、香象、荘厳、浄国、恵光、相承、我覚、等覚の7院の他に新たに安楽、正覚、最勝、海光、増福の5院を復興させ12院とした。


寛永10年(1633年)11月、京都大徳寺の禅僧、沢庵宗彭(たくあんしゅうほう)は従者二名を伴って鎌倉に遊び、鶴岡八幡宮に参詣した。

明治政府による「神仏分離」以前の八幡宮寺には、供僧12人、神主1人、小別当1人、社僧8氏、承仕2氏、伶人8氏、神楽師8氏、八乙女(巫女)8氏の職員が居た。


  供僧:供僧(ぐそう):神宮寺に住し事を修する僧侶。奈良朝ころより神習合思想によって宮神社に寺を建て,これに別校(けんぎよう),勾(こうとう),,執行など多の職階から成る僧侶を住せしめ,神官は別を長とする僧侶の支下にあった。

  社僧:供僧と同じ。

※承仕(しょうじ):寺院などの雑役を務めた者。僧形(そうぎょう)妻帯は随意であった。

※伶人(れいじん):雅楽の演奏を職とする人

※神楽師(かぐらし):を舞う人

八乙女(やおとめ):主に神楽(いわゆる巫女神楽巫女舞)をもって奉仕する8人の巫女


明治新政府主導のヴァンダリズム(文化破運動)
鎌倉 の『鶴岡八幡宮』は、939年前の創建時から仏教が主導する神社『鶴岡八幡宮寺』で、1869年(明治2年)に純粋な神社となってからの歴史151年に過ぎない。
「鶴岡八幡宮寺」は、明治新政府主導のヴァンダリズム(文化破運動)によって強制的に神社「鶴岡八幡宮」に変革された。

慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜が大政を奉還し、明治元年(1868年)328日、本居宣長の流れを受けた志士が多かったので、太政官(だじょうかん)は神仏混淆(しんぶつこんこう)を禁止した。鶴岡八幡宮寺では明治232日以前に、十二院の供僧(ぐそう)は餝(ふくしょく)して髪をのばし、妻帯肉食も自由の身となった。
そして、従来僧侶に比べて下位の神主は、古来からの大伴氏(おおともうじ)がいるので、総神主と称し、今まで僧侶は上位であったのに、「僧尼不浄の輩入るべからず」と掲示した、という。心ある人々はその激変ぶりに驚き、かつ憤ったのであった。

太政官:日本の明治維新政府に設けられた官

※神仏混淆:日本土着の神祇信仰(神道)と教信仰(日本の 教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象

  餝:僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。
  大伴氏:伴氏の後裔である伴忠国鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を承。

の内、現在は社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一教施設であった。本地堂、愛染堂、師堂、護摩堂、神堂、六角堂、大塔などがあり、本地堂には師如、愛染堂には愛染明王が安置されていた。

「神奈川県」からは、たびたび分離を実施するようにと催促されていたが、明治3年(1870年)付けで、境内にあった薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、仁王門を取り除き終わった旨の届出書が県庁に提出された。
取り除くのに要した日数はわずか十数日であった。堂舎のなかには移築されたものもあったが、大部分は破壊され、近所の住人は一回入場するのに若干の銭を払い、銅板などを背負ってかつぎ出したが、わざと1枚落とし、それを拾うと称して内に入り、また銅板などを一背かつい出てくる者もあったという。

建物ばかりでなく、仏像も仁王像・弘法大師像(鎖大師)・神宮寺の薬師三尊像・愛染明王像などは近くの寿福寺に納められた。その後、弘法大師像は鎌倉市手広の青蓮寺に、薬師三尊像はあきる野市の新開院に譲られた。経文は買い取られたもの以外、焼き棄てたという。こうして、「鶴岡八幡宮寺」は廃絶したのである。

—貫達人 著 「鶴岡八幡宮寺」 有隣堂新書より-

今、鶴岡八幡宮には、次のような建物があります。
鳥居から順に、鶴岡文華館(鶴岡ミュージアム)、社務所、休憩所直会殿、舞殿、若宮、本宮

他に、次のような神社や施設があります。
旗上弁財天社、鶴岡幼稚園、斎館、鎌倉国宝館、研修道場、祖霊社、白旗神社、丸山稲荷社、鶴岡文庫

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