『妙本寺』



















妙本寺は、鎌倉を囲む丘陵の南東にいだかれた谷戸(やと)、比企谷(ひきがやつ)の地にあります。JR鎌倉駅の東南東で鎌倉駅から徒歩8分で総門に至ります。

妙本寺は、日朗(妙本寺の見解では日蓮聖人)を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。創建は、1260年(文応元年)、開基は、鎌倉幕府の有力御家人、比企能員(ひきよしかず)末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)です。山号は長興山です。

この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。

比企能員は、阿波国または安房国出身とみられます。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となります。
比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めましたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡しました。

比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をしている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりと言われています。

日蓮聖人は、1260年(文応元年)、比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けました。

第二祖(妙本寺の見解では第二祖が日朗で第三祖としている)日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世 島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。

総門(敷地の入り口にある最初の大きな門)では鎌倉で一番大きな門です。
四脚門の形式の門です。円覚寺・建長寺の総門に並ぶ規模です。

総門の先に山門があります。山門のことを、日蓮宗では二天門と呼ぶそうです。四天王のうち、右ー持国天と左ー多聞天と二天を祀っています。江戸時代の嘉永元年(1848)に祖師堂に続いて建てられました。弁柄塗りの門です、龍の彫刻は日本では珍しい、羽根のある龍です。

山門をくぐると奥に祖師堂があり日蓮上人が祀られています。日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されています。
祖師堂は鎌倉最大級の木造仏堂建築です。
祖師堂の右脇には比企一族の墓が並びます。当主・能員(よしかず)以下100余名が祀られているのはこの場所です。

総門を入って左手の方丈門をくぐり階段を上がった先に蛇苦止堂(じゃくしどう)があります。
蛇苦止堂の蛇苦止明神は比企の乱で悲劇の入水をした若狭の局の霊が北条政村の娘にとりついて苦しめたのを慰めまつっています。

総門と二天門の間の北側に、本堂と客殿寺務所があります。


花では4月のサクラ、カイドウ、7月のノウゼンカズラが有名です。


妙本寺住所:〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1-15-1 

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