『極楽寺』
















江ノ電「極楽寺駅」すぐ北側徒歩2分、鎌倉市の西部、「鎌倉七口」の1つである「極楽寺坂切り通し」の長谷に向かって手前にあります。隣の「長谷駅」までも徒歩11分と近く、途中、成就院に寄って長谷の街に行くコースは鎌倉散策の定番です。

この寺は、鎌倉唯一の真言律宗の寺で、山号は霊鷲山(りょじゅさん)本尊は釈迦如来です。建立したのは、北条義時の三男・重時で、執権を補佐する連署まで務めた人ですが、政冶に執着することなく、出家してその邸に極楽浄土の姿を現そうとして大寺建立を思い立ち、正元元年(1259)に造営を始めました。ところが工事半ばの弘長元年(1261)に重時は亡くなり、その子・長時と業時が父の志を継いで完成させました。

奈良東大寺壇院で受戒し、真言律宗を興した叡尊(えいそん)を師と仰ぎ奈良西大寺で「律」を学んだ僧忍性(にんしょう)」が招かれて開山となり、最盛期は七堂伽藍を備え、大小49の支院がありました。忍性はこの広大な境内に、慈善救済の大事業を営みました。
施楽院・悲田院・療病舎などの建物が並び、日夜多数の病者を収容し、貧者には無料で加療・施薬をしました。精力的な活動をした忍性は、さらに土木事業も起こし、各地に橋を189ヶ所、道は71ヶ所も造りました。特に貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られています。
忍性はまた、金沢文庫(現横浜市)の称名寺の開山にも尽力しています。

忍性は生き仏と仰がれていました。ところが元弘三年(1333新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火でことごとく焼失してしまいます。今では昔の面影はありませんが、本堂前にある薬草をすり潰した石臼と石鉢が、忍性の大事業を示しています。忍性は功績を認められ「後醍醐天皇」より「菩薩」の称号を貰っています。(鎌倉ぶらぶらより一部転載)

建治元年(1275年)と徳治3年(1308年)にも火災で焼失修復費用獲得のため鎌倉幕府公認の下正和4年(1315年)ごろ元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され極楽寺の僧侶円琳坊が同乗しています
近世に入り寛永10年(1633年)に極楽寺を訪れた沢庵宗彭(たくあんそうほう)当時の寺の様子について壁は落ち屋根は破れ棟木はたわんでいると描写しており(『沢庵和尚鎌倉巡礼記』江戸時代初期には荒廃が進んでいたことがわかりますその後明暦2年(1656年)には当時の住職恵性(えしょう)が再度中興しました。

近代に入り関東大震災1923年)では本堂が倒壊するなどの大きな被害に遭いました現存の伽藍は山門が文久3年(1863年)の建立であるほか近代の再興です

境内には、薬草をすり潰した石臼と石鉢や、忍性が人々に粥を施したと伝えられる井戸や、北条時宗が手植えしたという「八重一重咲き分け桜」、などがあります。

「極楽寺駅」は、小さな駅で木造のこじんまりとした駅舎がどこか懐かしい雰囲気を作り出しています小泉今日子さん中井貴一さん主演で2012年にフジテレビ系で放送されたドラマ、最後から二番目の恋では、古都鎌倉の街の風景のひとつとして度々登場していました。


No14写真出典:www.pahoo.orgNo15写真出典:htpps://twiter.com

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